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佐竹台8丁目25番地―12

ムチャ・グラシアス('02/09/21)

サッカーなんか、大っ嫌いだった。

今から14年前、'93年の後半の頃のことだ。

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'93年、日本にプロサッカーリーグ・Jリーグが誕生した。

当時、チームは10チーム。

そして、地域のバランスがまだ取れていなかった。
関東・東海地区に8チーム、そして、それ以外には2チームしかなかった。

当初私が応援したのは、ガンバ大阪だった。

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永島、和田、礒貝、本並、松波、賈秀全、故・久高さん。
彼らが奮闘するも、ガンバは強いチームでは無かった。

特に勝てなかった相手が、当時最強だったヴェルディ川崎。
哀しいくらい、勝てなかった。

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ヴェルディ川崎には、ラモス、三浦知、北澤、武田、都並らがいた。
私には、彼らが「チャラチャラした奴等」と映った。

そういう奴等は大嫌いだった。
だから、そういう奴等にだけは負けて欲しくなかった。
が、ガンバは負け続けた。

だから、サッカーは、大っ嫌いだった。

'93年のドーハの悲劇。
当時の日本代表にはヴェルディの選手が多々所属したが、
ガンバの選手はいなかった。

彼らを応援する気持ちにはなれなかった。
悲劇の瞬間、心のどこかで、「ザマミロ」と思った。

「お前らがチャラチャラしてるから、負けたんだよ!!」と、心の中で罵っていた。

今考えたら、なんて勿体無いことをしていたんだろう、と思うのだが・・・。

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その'93年の12月。

天皇杯が開催された。
当時のサッカーの試合は、プラチナチケットだった。

親戚のコネで手に入れたチケットは、万博での準々決勝の試合。
順調にガンバが勝ち上がれば、ガンバの試合が見られるはずだった。

しかし、ガンバは名古屋に敗れ、結局観戦試合は
鹿島-名古屋戦になってしまった。

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不本意ながら見た、その試合は、前半名古屋が3-0とリードした。

しかし、名古屋の米倉が2枚目の黄色で退場となり、
鹿島が怒涛の攻めから、後半に追い付き、
結局、延長の結果、5-3というスコアで(注:当時の天皇杯は延長Vゴールでは無かった)
鹿島アントラーズが勝ち上がった。

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この試合の印象は、結果しか覚えていない。

あ、あと、鹿島にジーコたんが出場していた気がする。

でも、絶対に忘れられないシーンがあった。

それは、ハーフタイムでの他球場の経過が流れた時だった。

「ヴェルディの試合が前半を終えて、1-1」と流れたとき、
「勝っていないのか!!」というどよめき声が、会場を包んだのだった。

その準々決勝の相手こそが、
横浜フリューゲルスだった。

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日帰りで岡山に帰ったその日、母から結果を知った。

なんと、フリューゲルスが2-1でヴェルディを倒したのだった。

当時の私の認識では、フリューゲルスでよく知っている選手は数少なかった。

ただ、その中で、一番印象に残る選手がいた。

その選手は、続く準決勝の広島戦で、1-1の後半、
フリューゲルスの左サイドからのCKから、
バックヘッドで決勝ゴールを流し込んだ選手だった。

そして、残念ながら彼はこの試合で黄色をもらい、累積警告の結果、
翌'94年元日の決勝には出場停止となってしまった。

その鹿島との決勝戦、延長の結果6-2でフリューゲルスが勝利し天皇杯を獲得し、
それを見て、私はこのチームのファンになろう、と心に決めた。

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その選手は、
とにかくゴツイ男だった。

これでもか!!っと思うくらい、濃い顔。
そして、屈強なフィジカルを武器に、荒っぽいプレースタイルで、
サイドバックなのに守備を考えず、ガンガン左サイドを駆け上がる。
彼の頭は、年齢を詐称してるのでは?と思わせるくらい、禿げ上がっていた。
そして、彼が得点を決めると、変な踊りを踊りだす。

彼の名は、モネール・フェルナンド・ダニエル。

アルゼンチンから来た、強烈な選手だった。

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モネールは、横浜フリューゲルスとなる前の1988年、全日空に所属。

しかし91年に、スペインのアトレティコ・マドリーに移籍した選手だったが、

93年のJ開幕に合わせ、全日空がフリューゲルスとなった時、
再び呼び寄せた選手だった。

しかし94年のオフ、フリューゲルスがブラジル人の新旧セレソントリオ、
ジーニョ、エバイール、サンパイオを補強することが決まり、

チーム編成上の理由から、94年限りで日本を去り、
母国のアルゼンチンでサッカー選手生活を続けていた、らしい。

母国での現役続行ついては、後日知ったことだ。

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2002年、日本は韓国との共催でW杯を開催した。

地元開催のため、W杯予選が無い日本。

そこで、他国のW杯予選の経過について、深夜番組ながら
詳細を伝えてくれる番組が、フジテレビ系列で放送されていた。

番組名は、「さんまのW杯天国と地獄」。

南米予選、欧州予選等の結果を伝えながら、
現地の様子について、各国出身の人をレポーターに起用し、
予選の熱狂を伝えてくれていた番組だった。

レポーターには、ドイツはリトバルスキー。
イタリアは、後にチョイワルの発進源となった、パンチェッタ・ジローラモ。

そして、彼らと同じように、アルゼンチンの担当の人間がいた。

それは…

あの、モネールだった。

「さんまさん、さんまさん。
 いちばんおもしろいのさっかーせんしゅ~、もね~るでぇす!!」

と、人懐っこくしゃべるモネール。
そして、なぜか動詞がほとんど過去形になっている、
へんな日本語をしゃべりながら愛嬌を振りまくモネール。

最初に見たとき、あまりにも嬉しくて、そしてフリューゲルス在籍時以上に
広がった彼のオデコを見て、自然と笑みがこぼれてしまった。

そして、まだ彼は現役サッカー選手だったのか!?

という驚きを、喜びと同時に感じた。

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共催W杯では、アルゼンチンは予選リーグ敗退だった。

第3試合、勝たなければ敗退が決まるスウェーデン戦、
65%という圧倒的なボール保持率にもかかわらず、スウェーデンと引き分けてしまったのだ。

当然、会場の宮城スタジアムに行っていたモネール。

いかり肩をがっくりと下げ、うなだれて帰路に着くモネールの姿が、
さんまの番組で大きく取り上げられていた。

そのVTRをスタジオで、タレントとして映っていたモネール。

私は、これでもうモネールを見る機会なんて、
無いんだろうなぁ、と思っていた。

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W杯は、7月に終了。

その後、9月に個人的なことだが、私のPCがクラッシュしてしまい、
2週間ほどネット環境から離れてしまった。

なので、スポーツ紙のネットサイトの情報から離れていた。

だから。

学生時代からの親友が電話のついでで、

「そういえば、横浜FCが、モネールを獲得したらしいで」

と教えてくれた時、

私はてっきり、冗談としか思えなかった。

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9月21日。

この週末にかけて、当時在住の岡山から、東京出張があったおかげで、
会社の同期からの千葉マリン観戦の誘いを断って
江戸川陸上競技場に向かった。

地下鉄東西線・西葛西の駅から、バスに乗る。
生まれて初めて見た、運賃先払い式のバスに軽いカルチャーショックを受けながら、
スタジアムに到着。

そして、入場。急いでピッチを眺める。…と…。

いたいたいた、ゴツイ体とスキンヘッド。
遠目からでもすぐに分かるのは、昔と全く変わらない。

そこにいたのは、試合前の練習・アップをするモネールの姿だった。

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この日の試合は、横浜FC-大分戦。

結局この年の11月、強固な守備を武器に首位で昇格を決めた大分が相手の、
この年最下位で終わってしまった横浜FCのホームの試合。

信藤監督掲げる「2-4-4」の超攻撃的布陣、
守備ラインを高めに設定し、
ボールポゼッションを高め、サイドを大きく使った攻撃サッカーは、
志としては高く、そして完成すれば非常に面白いサッカーが期待できるものだった。

が、実際は、守備重視&カウンターが主流のJ2リーグ、
この戦術は相手の思うツボ。

カウンターから失点を重ねていってしまったのだった。

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そして、この試合も例外では無かった。

まずは守備、という姿勢の大分に対し、
横浜FCは前半、無様と言ってもよい出来。

前半4分、横浜やや左サイドからの大分のFK。
距離を確認するためにラインズマンがピッチ内にいる時に、
わざとアンドラジーニャが蹴り込み、やり直し。

これで集中力を切らせておく作戦に見事にはまり、
FKから若松のヘッドでまず1失点。

その直後には、私のひいきの吉武選手が、右サイド深くえぐりクロスを上げようとして、
滑るピッチコンディションから軸足を滑らせ、
後頭部を強打し、脳震盪を起こし、フラフラ。
前半12分で田島と交代。

前半25分にさらにセットプレーから1点失った後には、
その前から集中を欠くプレーを見せていた右SBに入った中尾が、
クリアするつもりのボールを自陣ゴール右上隅に突き刺す、
スーパーファインオウンゴールを決め、0-3に。

終了間際、小野信義のゴールでなんとか1点は返すも、1-3で前半終了。

正直なところ、全く勝てる気どころか、そもそも勝つ気があるの?と聞きたくなるような展開だった。

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後半開始。

ここで、信藤監督が動いた。
3枚の交代枠をここで使い切る。

FW佐藤に変えて、神野を投入。

右SBの中尾を交代、左SBの公文を右に持ってきて…

いよいよ、モネールがピッチに。

大きな体、そして背中に大きな背番号・28をつけて。

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後半開始早々、横浜FCの左CKのチャンス。

184cmの大男・モネールは、コンディションが悪く、全くジャンプしなかったのだが、
体格の良い選手の少ないJ2では、威力十分。

見事にバックヘッドで流す。
これはGK岡中のファインセーブにより抑えられたものの、
GKの手前でバウンドする、非常に嫌らしいシュート。

8年ぶりのJリーグ、これが挨拶代わり。

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これが口火となったのか。

横浜FCが後半、見違えるように、一方的にポゼッションを高め攻勢に出る。

そりゃそうだ、2点ビハインドの展開、
このままでゲームが終われば、敗戦で終わってしまう。

そのためには、ゲームを動かし、試合展開を波立たせないといけない。

そして、その波の中心にいたのがモネール。

そのフィジカル、対人プレーは圧倒的に、強い。
そして足下の技術、それほど上手い選手じゃないと思っていたけれど、
J2下位の選手たちの中では、飛びぬけて上手い。

さらに、そのスピードの遅いこと!!

左SBの位置に入ったのに、当然前掛かりで攻める横浜FC、
その中心に絡もうとするモネール。
気がついたら、ボランチより高い位置でプレーしている。

当然相手も、攻撃でその裏を狙う、モネールはドタドタ戻るが、
全くスピードではついていけず、
そのため大分がカウンターで
時々大きなチャンスを得ては、横浜FCのDFが懸命にクリア。

なので、試合展開は互いにチャンスの多い、スリリングな展開に。

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でも、決してモネールはビビッて低いポジションは取らない。

何度裏をつかれ、ドタドタ戻されても、
気がついたら高い位置にいて、ボールに絡む。

だって、点をあと2点は取らないと、この試合は負けてしまうから。

引いていても、得点には繋がらないから、それでは何にもならない。
それなら、リスクは高くても、負けない可能性がある、攻撃に賭ける、という姿勢。

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気がついたら、私の視線は、そのモネールばっかりを追いかけていた。

SBなのに、中央やや左の位置にいるシーンが多かったのが印象に残っている。

何度弾き返されようとも、諦めず上がり、
守りを固める大分から必死でゴールを奪おう、という姿勢。

前半、このチームからは、勝つ気があるのかすら全く漂ってこなかったのだが、
後半は全く別のチームがサッカーをしていた。

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横浜FCの懸命の攻撃が実を結んだのは、後半39分。
途中出場の神野のゴールで、2-3に。

さぁ、あと1点だ!!

…と思ったところで、1分後に集中を切らし、
あっさりカウンターから高松に決められ、再び2点差に。

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でも、横浜FCは決して諦めない。

モネールも、また同じように高い位置で攻撃に絡む。

そして後半ロスタイム直前。神野がゴールを決め、3-4、再び1点差。

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さぁ、ロスタイム、まだ時間はある。

ここで1点取れば、勝ち点1を手にすることが出来る。

首位のチームに対し、諦めが全く見えなくなっていた横浜FC。
大柄のモネールを前線に上げ、パワープレーに出る。

横浜FCのファールを取られ、大分は当然時間を使う。

モネールは、それまでも審判に散々主張をしていたが、
ここでは審判に激しく抗議し、ついに黄色を貰う。

でも、ひるまない。

モネールのいる前線にめがけ、後方からロングボールを放り込む横浜FC。

それがはじき返され続けるのに痺れを切らしたモネールは、
一旦中盤に下がり、自分でボールをキープし、
ゴールに向けて一直線にドリブルを始めた。

守りを固めるために下がり目のポジションの相手ボランチを交わし、
さあ、あとはDFライン、これを交わせば…。

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ゴール正面、PAのやや外。
大分のCB瀬戸春樹とモネールが交錯した。


審判が、強く、長く、笛を吹いた。

ポケットからは、赤いカードを手に取り出し、それを高く掲げながら、その地点へと駆け寄った。


得点機会阻止による、赤の提示なのか、と思った。


しかしそれは、奪われたボールがクリアされるのを防ごうと、
モネールが高く上げた足が、瀬戸の腹を直撃したことに対し、

著しく不正なプレー、としてモネールに対して掲げられたものだった。

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もちろん、ラフプレーはいけないこと。それは分かっている。
この後、担架で外に出された瀬戸は、結局試合に戻れなかったし、
この退場処分は、きわめて正当なジャッジだったと思う。

だけども、このプレーは、

試合に出る以上は、絶対に負けたくない、勝ちたい。

そういうモネールの気持ちが強すぎて、乱暴な形となって、プレーに現れてしまったんだと思う。

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客寄せパンダ、という言葉がある。

既に左SBに森田と公文、という2枚がいた中で、

左SBのモネールの獲得は、戦力補強、というよりは

そのキャラにあやかり、少しでも観客を増やしたい、というチームの意向を反映させた、
まさに客寄せパンダの獲得、が目的だったんだと思う。

でも、パンダがそのキャラクター以前に生物である以上、当然食事を欲したり、寝たりするのと同じように、


モネールだって、その愛嬌のあるキャラうんぬん以前に、

一人のプロサッカー選手なんだ。


プロサッカー選手である以上、試合に出れば勝利を欲しがる、
そして、勝利のために全力を尽くす。


そのプロサッカー選手としての姿勢は、十二分に見せ付けてくれた。

きっと、それがチームの選手にも伝わったからこそ、
チームも後半は見違えるほどの攻勢に出られたんだろう。

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下を向き、うなだれながらピッチを後にし、トボトボとベンチへ歩いてきたモネール。

大きな体躯、いかり肩。
でも、そのいかり肩をすぼめ、髪の毛のある人のおでこと生え際の中間あたりを右手で押さえながら…。

でも間違いなく、そんなモネールが、今日の試合の主役だったんだ。

今日の試合を、上位と下位の単なる消化試合ではなく、
見応えのある、お互いが勝ちにこだわる「勝負」にしてくれたんだ。

多分、それは私だけじゃなくて、その場に居合わせた横浜FC側の観客の
多くが感じていたんだと思う。

その証拠に、
引き上げてくるモネールは、観客席からの大きな拍手に迎えられた。

そして、主役を退場させた、正当なジャッジを下した主審の北村氏には、
引き上げる際に理不尽なブーイングが浴びせられた。

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当然結果には悔しかったのだけれど。

勝負事は、負けることもある。それはしゃあない。

それよりも、ひいきのチームが勝ちに行く姿勢を見せ、ベストを尽くして戦ってくれたことに
大きな喜びと満足感を感じながら、この日岡山へと帰った。

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翌2003年。

2月、横浜FCは愛媛県新居浜市でキャンプを行った。

会社の同期を誘い、瀬戸大橋を渡り当時JFLの愛媛FCとの練習試合を見に行った。

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監督もかつてJFL時代を率いていたリトバルスキーが復帰し、
戦うこととなった横浜FC。

このシーズンを戦う選手たちと、背番号が既に発表されていた。

モネールは、公文選手の退団で空いた、
かつてフリューゲルス時代に着けていた、おなじみの背番号・6番を付けることになっていた。

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練習試合は、格下の愛媛FCに先制されながらも、
後半にひっくり返し、2-1で横浜FCが勝利。

でも、私にとって、その練習試合はメインではない。

愛媛に来た最大の目的は、10年近く前からファンだった、モネールからサインをもらうこと。

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でも、その練習試合には、モネールは出場していなかった。

試合終了後、即席サイン会が始まった。

選手との間に、仕切りの塀どころかロープすら無い練習場。

そこを、地元の少年たちが、われ先にサインをもらおう、と芝生のエリアに入ろうとするが、
「お願いだから、芝生には入らないでください!!」と必死でみんなに声をかけてる、
チームマネージャーのソエちゃん(※)。

(※添田貢広さん、横浜FCのチーム立ち上げから、ずっと関わっておられるマネージャーさん。
 初期の頃は、ホペイロ役だけでなく、練習場の確保等まで携われた方で、この方無しでは今の横浜FCは存在しない)

彼らの1番人気は、城彰二選手。

日本初出場のW杯で、無得点ながらも日本代表のエースFWだっただけに、やはり格が違う。

…でも、当時は私は城選手が好きではなかったので、気にも留めていなかった。
…まさか、その3年後に、こんなことしてもらえるなんて、思うはずも無く… 笑

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で、お目当ての選手を探す。

スキンヘッドはどこだ?

そればっかりが気になって、その他の選手がすぐ目の前を通っていくけど、私は上の空。

今振り返れば、2年目を迎えるウッチーこと内田智也選手がすぐ近くを通って引き上げていっていた、
当時はくるくるのパーマをかけていたウッチーの身長の小ささに驚いたのは印象に残っている。

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そんな中、ようやく目当てのモネールを発見!!

なかなか見つけられなかった理由は簡単、ニットキャップをかぶっていたから。
そりゃ、温暖な四国だけど、日陰には2,3日前に降った雪が残る、寒い日だったから、仕方が無いよね!!

慌てて色紙片手に、モネールの近くに行く、
しかし、人気者のモネールも、やはり少年たちに何重にも囲まれてしまい、
私は輪に入り損ねてしまった。

20~30m先のマイクロバスに向けて歩きながらモネールはサインを書いていたけれども、
全員には書ききれずに、マイクロバスまで着いてしまった。
(↓その時の様子)
サインに応じるモネール

…せっかくのチャンスなのに、サインを貰えないのか…!?と私は内心、気が気でなかった。

でも、優しいモネールはちゃんとバスの入り口の前で、
サインを求める人全員に、サインを書いてくれていた。

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少年たちに混じって、私のような20代の男性の方がサインを求めていた、
昔のカルビーのJリーグチップスのモネールのカードと、
J開幕時の、ミズノ社製のフリューゲルスのレプリカユニを持って。

カードを見つけるなり、モネールは、

「おぅ、なつかしいよぅ~、まだわかかったよぅ~」

と日本語でしゃべり、周囲に爆笑の渦を発生させる。

さすが、明石家さんまが一目置くキャラクター。

そして、その男性のカードとユニには特に、とても丁寧にサインしていた。

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さぁ、サインを貰えた子達が外に出て、だいぶ輪も崩れてきた、
出遅れた私もどんどん近くなり、いよいよ私の番が来た。

憧れの選手からサインをもらい、
(↓これがその時もらったサイン、…昔持ってたJリーグチップスのカードも、無くすんじゃなかった…。 後悔)
その時もらったモネールのサイン

握手をしてもらった。

ゴツイ体に似合った、とても大きくてゴツイ手だった。

私は、何日も前から心の中でシミュレーションして、準備していた。

日本語がとても上手なモネール。
だから、逆に僕は、彼の母国語のスペイン語で、謝意を示そう、と。

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「ムチャ・グラシアス」

私がそういうと、モネールは大きな目をさらに丸くして、

「おぅ!!」

と驚いてくれた。

よっしゃ、通じた!!

その嬉しさで、私の体はいっぱいだった。

でも、モネールが返してくれた日本語の言葉は、少し予想に反したものだった。


「さよなら」


---
その後、吉武剛選手(現東京V)や北村知隆選手(現山形)、
そして真中幹夫選手(現横浜FCコーチ)からもサインをもらい、新居浜からの帰り道。

上機嫌で、頭がいっぱいで、その時は
モネールが返してくれた言葉に、

なんでなんだろう?

という疑問は全く思い浮かばなかった。

---
翌3月。

横浜FCの公式HPに、ある情報がアップされていた。

内容は、

横浜FCに新外国人選手、マシュー・ブーツ選手が加入すること、
そして、モネールが、チームのイメージキャラクターとして、新たに1年間チームと契約した

というものだった。


それは同時に、

アキレス腱を痛めてしまったプロサッカー選手、モネール・フェルナンド・ダニエルの
アルゼンチンで始まった彼の長いキャリアが、

地球の裏側の日本で、横浜FCで終わった

ということを意味していた。

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07年。

横浜FCは念願のJ1昇格を果たし、苦戦しながらも頑張っている。

その昇格を追っかけて、06年は私も山形やら鳥栖やらあちこち飛び回った。
かつてチャラチャラした奴ら、と映った中の代表ともいえる選手が、最もストイックな姿勢で引っ張っているチームを追いかけて。

気がついたら私の生活の中で、横文字が苦手なので海外は全く分からないけれど、

でも、サッカーというものが大きなウェイトを占めていて、これが無い生活なんて今は考えられない。

そんな生活を送るようになったのは、いつからなんだろう?

少なくとも、ここ数年の話ではない。

気がついたら、フリューゲルスが消えてしまった99年元日、当然テレビの前にかじりついていたし。
気がついたら、97年秋、日本代表のW杯初出場を果たしたアジア予選を熱狂的に見ていたし。
気がついたら、フリューゲルスがあと1歩で優勝を逃した97年リーグ戦1stステージも応援していたし…。

そう考え出しても、明確にいつから大きなウエイトを占めるようになった、とは言えないけれど。

でも、そのキッカケは、ハッキリしている。
間違いなく、94年元日のフリューゲルスの天皇杯優勝。

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でも、その優勝は、あなたがいなかったら実現しなかったかもしれない。

そうしたら今も、こんなに単純で乱暴でいい加減で、
だからこそ奥が深くて楽しくて熱い、サッカーというものに全く興味がもてないまま生きていたかもしれない。

そんな、もったいないことをせずに済んだのは、きっとあなたがいてくれたから。

---
だから。

今までも、日本サッカー界には様々な外国籍選手が来て、華々しい活躍をしていった。
ジーコタン、ディアス、ブッフバルト、ストイコビッチ、レオナルド、スキラッチ、エメルソン、アラウージョ、ワシントン…。

そして、これからも日本で大活躍する選手は来るだろう。

でも、どんな選手が来ようとも、そして活躍を見せてくれたとしても、
きっと私の中で、歴代外国人選手のNo.1は、ずっとあなただと思います。

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モネールさん、モネールさん。


ムチャ・グラシアス。


['07/05/17]


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